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もののあわれ(2)

本居宣長は「紫文要領」と「石上私淑言」で「もののあわれを知る心」論を展開しながら、徐々に儒仏、特に朱子学への嫌悪感をあらわにしていきます。宣長がどうして朱子学を嫌ったのか、どのような思考回路を経て復古思想に到達したのか、などを理解したいと考えてあれこれ読み進むと、朱子学とは何か、伊藤仁斎や荻生徂徠その他の朱子学への批判、とどんどん深みにはまり、前後左右どちらに進んでいいのやら。基礎がないとこうやって次から次に遡っていかなければならない、情けない話です。どうせ時間は好きに使える身なので、あとは体力と気力の問題、ま、もう少し彷徨ってみます。

朱子学は(中国で10世紀頃までは支配的だった仏教と道教に対して)「儒教における儒教的なものを回復しようとした運動の頂点というべきもの」(柄谷)です。朱子学の説では、世界には「理」が内在していて、事物に内在する理は自然法則、人間の心に内在する理は道徳規範と考えられます。理は物理であると同時に道理なのです。(意識の外側にあるという意味で)超越的であるけれども、人に内在的でもあります。人の存在は理にかなわなければならない当為で、修行をすれば人間はその在るべき在り方に到達できる、聖人になることが出来る、という思想なのです。世界はこの理に適って存在し、宗教的あるいは呪術的思考は排除されるという意味で、朱子学は徹底した合理主義なのです。

朱子学の祖は、南宋の朱熹(しゅき、1130-1200)です。朱子学の書物を日本に最初に持ち帰ったのは、通説では1211年に帰国した俊芿(しゅんじょう)とされていますが、それ以前に数度の渡航歴がある重源(ちょうげん)や栄西の可能性もある、とのことです(小島毅)。後醍醐天皇の建武の親政の理念には、朱子学の影響がみられるようです。柄谷は、「南北朝のおよそ80年間を、現実的な根拠から説明するのは難しい。たぶん誰もが、朱子学を読んで発狂したのだと思います」とまで言っています。

17世紀に入り朱子学者・林羅山(藤原猩窩の門人)が政治顧問として家康に招聘されるまでは、朱子学はそれほど広く浸透していず、主として禅僧の間で支持されていたようです(小島)。山崎闇斎、新井白石、室鳩巣(むろきゅうそう)などの朱子学者が活躍するのも17世紀から18世紀初めにかけてです。しかし、江戸時代を通じて朱子学は国民レベルでは広まってはいなかったようです。

ところで、徳川日本においては、中華思想あるいは華夷思想というもので世界を認識するのが主流でした。中心に華(夏)があり周辺に東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、北狄(ほくてき)、南蛮(なんばん)、総称して四夷とよばれる異民族がいる、という、もともとは漢民族が抱いた自民族中心主義(エスノセントリズム)の世界観です。日本の知識層の多くもこの世界観を用語の上では踏襲していました。用語の上ではというのは、漢民族の中国が華であるとはみなさず、より漠然と「礼・文」の存在するところが華であるという考え方に立っていたようです(桂島)。つまり、18世紀には日本が中華で清王朝が夷狄であるという見方も出てくるわけです。

伊藤仁斎(1627-1705)について、細かい議論は避けてざっくり理解してみます。柄谷行人の切り取り方を参考にしながら、その他いくつかネットで手に入った論文からもアイディアを借ります。

まず、仁斎が重視したのは現象であり実践である、という点です。仁斎にとって理は必要のないものになります。朱子学の理(本質的で抽象的な原理のようなもの)と気(具体的な現象のようなもの)の世界観からは、外れるわけです。仁斎は若い時には朱子学に傾倒していましたが、やがて朱子の論語解釈に疑問を抱き、自分の解釈を書き始め、それが「論語古義」として結実します。宗教改革の導火線になったルターが聖書に戻れと言ったように、仁斎もできるだけ孔孟に戻ろうとしたのでしょう。

ポイント二、世界のすべての存在(人、物など)は、理という超越的な元型のようなものから作られるのではなく、一元気という生命の精のようなものから生成する、という仁斎の考え方です。この視点の転換によって、人間が超越的な存在である理の束縛からか解き放たれた、という見方もできます。(注・世界が生々的に発展するという考え方は古く中国にもありますが、今の歴史的文脈で重要なのは、朱子学批判の観点から出てきたという点です。また、仁斎も理という言葉を使っていますが、条理というような意味です。)

もうひとつ仁斎の考え方で(宣長を論じる文脈上)指摘したいのは、人の情(感情)を重視した文学感です。中村幸彦の論文には、仁斎の説は「一に詩広く文学は人情を道(い)ふものである。二に従って、文学は勧懲の具ではなく、道徳的なふるひを一度かけた後に人生に役立つといふものでなく、直接にあらはれた人情に共感することによって、人間が完成されてゆくものである」(小椋嶺一の引用より)とあります。これは宣長が「紫文要領」で主張したこととほぼ同じではないでしょうか。さらに言えば、情を主とする文学および文学感は元禄期以降(元禄元年は1688年)盛んであった時代の風潮と言えます。つまり、宣長が源氏物語を読むにあたって道徳よりも人の感情、感動、共感を大切にしなくちゃ、と主張したことは、革命的だったというよりも、時代の流れに沿っていたのだろう、と思うのです。

これらの点が、宣長の「もののあわれを知る」思想を理解する上で役に立つと考えます。

[参照]
桂島宣弘、「華夷思想の解体と自他認識の変容」(ネット上の論文、出版年不明)
柄谷行人、「江戸の注釈学と現在」、1985年、講演、「言葉と悲劇」(講談社学術文庫)所収
小椋嶺一、「宣長と秋成~近世文学思想論序説」、2002年
小島毅、「日本的朱子学の形成」(ネット上の論文、出版年不明)
諏訪春雄、「江戸時代文学と中国文学~反朱子学の系譜」(ネット上の論文、出版年不明)


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